小学生の頃から自己肯定感が死んでた

自分は分かりやすい虐待を受けたわけではないが、幼いながらに大層落ち込み、絶望する出来事があった。

 

小学校3-4年生か。いたずらの度が過ぎてしまい、こっぴどく叱られたとき。

「とうとう母に見捨てられた」「自分は悪いことをした人間だから幸せになる資格はない。何事も最大限に遠慮して人生をやり過ごさなければいけない」と思った。毎食のご飯が喉を通らず、今までの一食分を完食できない。どこにいても、何をしていても、ふと気がつくと胃に岩(石じゃなく)か鉄な塊かが入っているような感覚があることに気がつく。「この反省の感覚を一生噛み締めて生きていかねばいけないのか」と生涯の幸せを諦める決意をしていた。

 

今思えば、鬱に近い状態だったと思う。

そのとき、父はどちらかというと私の味方で、でも口下手な大人だった。私を庇う言い分をした父が、母にその発言内容否定される場面を覚えている。

「いたずらの行為自体は意図的にやったものだけど、誰かを困らせるためにやったわけじゃない」「ちょっと悪ふざけしたら、自分でも思った以上に不適切な行動だったとあとから気づいた。そんなことをした自分に驚き反省している」私のこういう気持ちを、父はなんとなく察しているようだった。

でも母は「心の中でいたずらしたいと思っただけでダメ!」と言い、私には「人の持ち物がほしいと思っただけで犯罪、重罪だ!」とキツく言われたように感じられた。 

 

ちなみに味方だと思った父は、その後うつ病になり、母や私に暴言を吐き、子供である私の発言にキレて家の中を走って追いかけ回すようや態度をとることになる。私の味方だと思った人はマトモな奴じゃなかったという事実は、それなりに私を絶望させた。

まあ、そもそも、平日は家に寄り付かず晩ごはんを自宅で食べることはごく稀、というあたりで、そんなに"いい"父親じゃなかったのかもしれない。

 

それから、なんの場面だったか、私が叱られて大泣きしているときに、流石に気持ちが苦しくなって母に助けを求めたことがあった。「(こうして苦しい時って、)自分を責めるな(という心持ちで対処すればいいんだろうか?)」と話しかけたら、「きみどりは『自分を責めろ!』だよ!!」と返された。

 

私が期待していたのは、全面的に許してもらえなくとも部分的に許してもらえるとか、あるいは反省の仕方や気持ちのコントロールの仕方を教えてもらえるとか、そういうことだったんだと思う。でも、母の返事を聞いて、やっぱり自分はダメな人間で、ダメな子なんだ、と思った。思い出しながら翻訳してつけ加えると、「わたしはダメなやつだからこの先もいっぱい失敗するだろうけど、その度に自分を責めて反省し尽くすことでしか母に許してはもらえないんだ」みたいな理解をしたんだと思う。

 

そしてもう一つ。それらの経験から、自分が悪いことをしたときに裁いて許してくれる存在として、母を絶対視するようになっていたと思う。だから反抗期なんて文字通りあり得なかった。(裁いていただく側の私に、神に反抗する資格 などない)

 

社会人になってからも、ちょっと仕事で落ち込んだりすると母に相談することがあった。そして「どうせ私なんて、こうして母に相談して意見を求めないと会社員すら務まらないんだ。寿命で母が先に死んだら、私は生きていかれなくなって、後追いして自殺とかするんだろうな、そうするしかないのかな」とけっこう本気で考えていた。

 

最初の会社で人生に悩んで鬱っぽくなっとき、やはり母を頼った。助けてもらった。でも、根本的なところを考えると、それまでの母との関係性がもっと健全であれば、仕事・進路に悩んでもここまで人生終わったと思い詰めることはなかったのかもしれない。(母は「正社員の立場だけは絶対に守らないとダメ」と言っていた)

 

そんなこんなで、私は20代になっても自己肯定感がガッタガタだった。(その自覚が芽生えていない時期は、私が鈍臭くて幸せになれないのは当たり前のことだと思っている…ということに自分で気づかないレベルだった)

 

たぶん、私の感受性の高さと想像力の豊かさもあいまった結果として、幼い私は親から冷たくされたし、自分でも自分のことをいじめ続けててきた。

 

就活、転職、何度かの恋愛…などで少しずつ自我の扱いにくさに気がつき、アダルトチルドレンに関する情報を得たりして、なんとか生き延びる社会人生活を送ってきた。

 

そして、ブレイクスルーかもしれないタイミングを迎えたので、こんなのを書いてみたのが社会人6年目の5月。

 

ほんとにブレイクスルーだといいなと願いつつ、軽躁であることを警戒しながら、ここ数日は過ごしている。 (もし躁なら調子に乗らず静かに過ごすのが得策だ)